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第3話  名前を呼ぶ距離

last update publish date: 2026-09-15 20:35:22

それから三日ほど、蓮とは会わなかった。

美咲は自分でも少し意外に思っていた。

たった二度会っただけの人なのに、書店へ行くとき、無意識に周囲を見てしまう。

駅へ向かう途中も、黒い傘を見かけるたびに目が止まった。

もちろん、そんな偶然が何度も続くはずはない。

そう思っているのに。

「……何やってるんだろう、私」

美咲は小さく笑った。

恋人がいるわけでもない。

約束をしたわけでもない。

ましてや、相手のことをほとんど知らない。

それなのに、少しだけ会いたいと思ってしまう。

そんな自分が、なんだか可笑しかった。

四日目の夜。

美咲は仕事帰りに駅近くのカフェへ入った。

家に帰ってから原稿を読む気にはなれなかった。

かといって、会社に残るほどでもない。

一時間だけここで仕事をして帰ろう。

そう思っていた。

窓際の席に座り、ノートパソコンを開く。

しばらく原稿に集中していると、テーブルの横から声がした。

「ここ、空いていますか?」

美咲が顔を上げる。

「……蓮さん?」

そこに立っていたのは、見覚えのある男性だった。

蓮は少し驚いたように目を見開いた。

「覚えていてくれたんですね」

「忘れるわけないですよ」

そう言ってから、美咲は少しだけ恥ずかしくなった。

言い方が、まるでずっと会いたかったみたいだった。

蓮もそれに気づいたのか、ほんの少し笑う。

「では、失礼します」

向かいの席に座った。

店内はそれほど混んでいなかった。

それでも、偶然同じ店で会うということが不思議だった。

「ここ、よく来るんですか?」

「仕事帰りにたまに」

「私もです」

蓮はメニューを開いた。

「何を飲んでいるんですか?」

「コーヒーです」

「じゃあ、同じものにします」

店員を呼び、注文を済ませる。

その間も、美咲は何となく蓮を見ていた。

穏やかな人。

最初に会ったときから、ずっとそう思っていた。

けれど、こうして近くで見ると、少し違う印象もある。

静かというより、何かを考えている。

時々、遠くを見るような目をする。

「どうかしました?」

突然聞かれて、美咲は慌てて視線を逸らした。

「いえ……」

「僕の顔に何かついてますか?」

「そういうわけじゃなくて」

「なら、よかったです」

蓮はそれ以上聞かなかった。

やっぱり、この人は不思議だ。

普通なら「何を見ていたんですか」と聞くところなのに。

美咲は少し迷ってから尋ねた。

「蓮さんって、いつもそんな感じなんですか?」

「そんな感じ?」

「人のことを、あまり聞かないというか……」

蓮は少し考えた。

「嫌なことを聞かれたくない人もいるので」

「なるほど」

「話したいことなら、向こうから話してくれると思っています」

その答えを聞いて、美咲はなんとなく納得した。

そして、自分がなぜ蓮といると落ち着くのか、少し分かった気がした。

無理に自分を見せなくてもいい。

話さなくてもいい。

沈黙していても、急かされない。

そんな相手は、思っていたより少ない。

「……私、昔はもっと話すほうだったんです」

気づけば、美咲はそんなことを話していた。

蓮は黙って聞いている。

「でも、いろいろあって。人と距離を取るようになりました」

「そうですか」

「聞かないんですね」

「聞いてほしいですか?」

美咲は一瞬、言葉に詰まった。

それから小さく首を振る。

「……まだ、いいです」

「分かりました」

蓮はそれだけだった。

その反応が嬉しかった。

「蓮さん」

「はい?」

「ありがとうございます」

「何がですか?」

「聞かないでいてくれること」

蓮は少しだけ目を伏せた。

「話したくなったら、そのとき聞きます」

「……優しいですね」

そう言うと、蓮はすぐには答えなかった。

しばらくしてから、静かに言った。

「優しいというより……自分がそうされたら嬉しいだけです」

美咲は、その言葉を心の中で繰り返した。

自分がそうされたら嬉しい。

だから、人にも同じようにする。

簡単なことのようで、なかなかできないことだと思う。

店を出る頃には、夜になっていた。

外は少し肌寒い。

「駅まで一緒に行きますか?」

蓮が尋ねる。

「はい」

並んで歩く。

今度は傘がない。

それなのに、美咲は最初に会った雨の日よりも、ずっと近くにいるような気がした。

駅の入口が見えてくる。

「では、また」

蓮が言った。

「……はい」

美咲も返す。

けれど、そのまま別れるのが少し寂しく感じた。

「蓮さん」

「はい?」

「また、会えますか?」

言ってしまった。

美咲自身が一番驚いていた。

蓮も少しだけ目を見開く。

それから、穏やかに笑った。

「会えると思います」

「どうしてですか?」

「僕も、もう少し水城さんと話してみたいので」

胸の奥が、ほんの少し熱くなる。

「……じゃあ、また」

「はい。また」

蓮が離れていく。

美咲はその背中を見送った。

今度は、後ろ姿を見ているだけではなかった。

また会いたい。

そう思っている自分を、もう否定できなかった。

けれど同時に。

少し離れた場所で、蓮が一度だけ立ち止まった。

美咲からは見えない。

蓮はポケットからスマートフォンを取り出す。

画面に表示された、見覚えのない番号。

着信履歴を見た瞬間、穏やかだった表情がわずかに曇った。

数秒、画面を見つめる。

そして、電源を切った。

「……まだ、終わってないのか」

小さく呟く。

その声は、駅へ向かう人々の足音に紛れて消えた。

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