ログインそれから三日ほど、蓮とは会わなかった。
美咲は自分でも少し意外に思っていた。 たった二度会っただけの人なのに、書店へ行くとき、無意識に周囲を見てしまう。 駅へ向かう途中も、黒い傘を見かけるたびに目が止まった。 もちろん、そんな偶然が何度も続くはずはない。 そう思っているのに。 「……何やってるんだろう、私」 美咲は小さく笑った。 恋人がいるわけでもない。 約束をしたわけでもない。 ましてや、相手のことをほとんど知らない。 それなのに、少しだけ会いたいと思ってしまう。 そんな自分が、なんだか可笑しかった。 四日目の夜。 美咲は仕事帰りに駅近くのカフェへ入った。 家に帰ってから原稿を読む気にはなれなかった。 かといって、会社に残るほどでもない。 一時間だけここで仕事をして帰ろう。 そう思っていた。 窓際の席に座り、ノートパソコンを開く。 しばらく原稿に集中していると、テーブルの横から声がした。 「ここ、空いていますか?」 美咲が顔を上げる。 「……蓮さん?」 そこに立っていたのは、見覚えのある男性だった。 蓮は少し驚いたように目を見開いた。 「覚えていてくれたんですね」 「忘れるわけないですよ」 そう言ってから、美咲は少しだけ恥ずかしくなった。 言い方が、まるでずっと会いたかったみたいだった。 蓮もそれに気づいたのか、ほんの少し笑う。 「では、失礼します」 向かいの席に座った。 店内はそれほど混んでいなかった。 それでも、偶然同じ店で会うということが不思議だった。 「ここ、よく来るんですか?」 「仕事帰りにたまに」 「私もです」 蓮はメニューを開いた。 「何を飲んでいるんですか?」 「コーヒーです」 「じゃあ、同じものにします」 店員を呼び、注文を済ませる。 その間も、美咲は何となく蓮を見ていた。 穏やかな人。 最初に会ったときから、ずっとそう思っていた。 けれど、こうして近くで見ると、少し違う印象もある。 静かというより、何かを考えている。 時々、遠くを見るような目をする。 「どうかしました?」 突然聞かれて、美咲は慌てて視線を逸らした。 「いえ……」 「僕の顔に何かついてますか?」 「そういうわけじゃなくて」 「なら、よかったです」 蓮はそれ以上聞かなかった。 やっぱり、この人は不思議だ。 普通なら「何を見ていたんですか」と聞くところなのに。 美咲は少し迷ってから尋ねた。 「蓮さんって、いつもそんな感じなんですか?」 「そんな感じ?」 「人のことを、あまり聞かないというか……」 蓮は少し考えた。 「嫌なことを聞かれたくない人もいるので」 「なるほど」 「話したいことなら、向こうから話してくれると思っています」 その答えを聞いて、美咲はなんとなく納得した。 そして、自分がなぜ蓮といると落ち着くのか、少し分かった気がした。 無理に自分を見せなくてもいい。 話さなくてもいい。 沈黙していても、急かされない。 そんな相手は、思っていたより少ない。 「……私、昔はもっと話すほうだったんです」 気づけば、美咲はそんなことを話していた。 蓮は黙って聞いている。 「でも、いろいろあって。人と距離を取るようになりました」 「そうですか」 「聞かないんですね」 「聞いてほしいですか?」 美咲は一瞬、言葉に詰まった。 それから小さく首を振る。 「……まだ、いいです」 「分かりました」 蓮はそれだけだった。 その反応が嬉しかった。 「蓮さん」 「はい?」 「ありがとうございます」 「何がですか?」 「聞かないでいてくれること」 蓮は少しだけ目を伏せた。 「話したくなったら、そのとき聞きます」 「……優しいですね」 そう言うと、蓮はすぐには答えなかった。 しばらくしてから、静かに言った。 「優しいというより……自分がそうされたら嬉しいだけです」 美咲は、その言葉を心の中で繰り返した。 自分がそうされたら嬉しい。 だから、人にも同じようにする。 簡単なことのようで、なかなかできないことだと思う。 店を出る頃には、夜になっていた。 外は少し肌寒い。 「駅まで一緒に行きますか?」 蓮が尋ねる。 「はい」 並んで歩く。 今度は傘がない。 それなのに、美咲は最初に会った雨の日よりも、ずっと近くにいるような気がした。 駅の入口が見えてくる。 「では、また」 蓮が言った。 「……はい」 美咲も返す。 けれど、そのまま別れるのが少し寂しく感じた。 「蓮さん」 「はい?」 「また、会えますか?」 言ってしまった。 美咲自身が一番驚いていた。 蓮も少しだけ目を見開く。 それから、穏やかに笑った。 「会えると思います」 「どうしてですか?」 「僕も、もう少し水城さんと話してみたいので」 胸の奥が、ほんの少し熱くなる。 「……じゃあ、また」 「はい。また」 蓮が離れていく。 美咲はその背中を見送った。 今度は、後ろ姿を見ているだけではなかった。 また会いたい。 そう思っている自分を、もう否定できなかった。 けれど同時に。 少し離れた場所で、蓮が一度だけ立ち止まった。 美咲からは見えない。 蓮はポケットからスマートフォンを取り出す。 画面に表示された、見覚えのない番号。 着信履歴を見た瞬間、穏やかだった表情がわずかに曇った。 数秒、画面を見つめる。 そして、電源を切った。 「……まだ、終わってないのか」 小さく呟く。 その声は、駅へ向かう人々の足音に紛れて消えた。「午前六時十二分……」 美咲は、資料に記された時刻を指でなぞった。 事件が起きたのは、五年前の六月十八日。 そして、見吉圭が黒崎グループに入館したのは、その翌朝。 六月十九日、午前六時十二分。 「契約終了日は六月十九日になっています」 美咲が言う。 「つまり、契約が切れる当日に、わざわざ会社へ来たってことか」 高瀬が腕を組んだ。 「はい」 「しかも、こんな早朝に」 二人は顔を見合わせた。 普通の出勤時間ではない。 まして、契約終了を控えた社員が、朝の六時過ぎに会社へ来る理由など簡単には思いつかなかった。 「入館した場所は?」 高瀬が尋ねる。 美咲は記録を確認した。 「社員用入口じゃありません」 「どこだ?」 「地下搬入口です」 高瀬の表情が険しくなった。 「……18番か?」 「そこまでは記録にありません」 美咲は首を振った。 「ただ、地下フロアへの入館記録になっています」
「……見吉圭」 美咲は、古い契約記録に残された名前を見つめていた。 何度読み返しても、名前は変わらない。 見吉圭。 五年前、黒崎グループのシステム保守を担当していた契約社員。 そして、事件の直後に契約を打ち切られた人物。 「これで、名前は確認できたな」 隣で高瀬が低く呟いた。 「はい。でも……」 美咲は、資料から顔を上げる。 「見吉さんが真犯人だとは、まだ言えませんよね」 「その通りだ」 高瀬は即答した。 「事件当時、見吉がどこにいたのか。黒崎と接触したのか。殺害に関わったのか。そこまでは、この記録だけじゃ分からない」 「それに……」 美咲は、野村の証言を思い出した。 事件翌朝。 地下搬入口。 帽子を深くかぶった人物。 そして、その人物が拾った紙片。 そこに書かれていた数字──。 「72」 「高瀬さん」 「なんだ?」 「野村さんが見た人物について、もう一度確認したいです」
野村から届いたメールを、美咲は何度も読み返した。 ──見吉圭は、事件の翌朝、地下にいた人物です。 そこまでは分かっている。 問題は、その次の一文だった。 ──ですが、私が見たのは彼だけではありません。 「もう一人……」 美咲は小さく呟いた。 高瀬にもメールを転送する。 数分後、電話が鳴った。 『読んだ』 「はい」 『野村に確認しよう』 「私もそう思います」 二人は野村と会うことにした。 待ち合わせ場所は、前回と同じ喫茶店だった。 野村は美咲たちが席に着くと、しばらく黙っていた。 「メールのことですね」 「はい」 美咲は手帳を開いた。 「見吉圭さん以外に、もう一人いたというのは?」 野村はすぐには答えなかった。 やがて、静かに口を開く。 「事件の翌朝、私は黒崎グループの地下搬入口近くにいました」 「どうしてですか?」 「神崎グループからの出向者として、前日の
翌朝。 美咲は、ほとんど眠れなかった。 頭の中を、あの五文字が何度も巡っている。 ──ミヨシケイ。 数字だったものが、名前になった。 けれど、まだ漢字が分からない。 美咲は出勤すると、すぐに高瀬へ連絡を入れた。 「昨日の数字、調べました」 『ああ』 「ポケベル暗号で読むと、ミヨシケイになります」 『それで?』 「漢字を特定したいんです」 『野村に聞くか?』 「はい。でも、その前に一つ確認したいことがあります」 美咲は昨日の資料を机の上に並べた。 黒崎グループ側の契約記録。 神崎グループ側の契約記録。 そして、地下管理室の入退室記録。 共通しているのは、ひとつの契約。 システム保守。 そして、契約担当者の名前だけが不自然に消されている。 「名前が消されたなら、別の場所に残っている可能性があります」 『社員名簿か?』 「それだけじゃありません」 美咲は答えた
美咲は、机の上に五つの数字を書き並べた。 72・83・32・24・12 何度見ても、意味が分からない。 高瀬も腕を組んだまま、その数字を見つめている。 「文字として読め、か……」 「はい」 相沢が残した言葉。 これまでの数字とは明らかに違っていた。 18・32・07・11・4。 こちらは場所や資料を探すための手がかりだった。 だが、 72・83・32・24・12。 これは違う。 五つの数字そのものが、何かを表している。 「数字を文字にする方法……」 美咲はスマートフォンを手に取った。 検索する。 数字を文字に変換する方法。 暗号。 数字表。 いくつもの情報が表示される。 しかし、どれもしっくりこない。 「違う……」 「何が?」 「この数字は、普通の暗号じゃない気がします」 美咲は画面を閉じた。
神崎グループの旧資料室は、黒崎グループのものよりも狭かった。 棚の数も少ない。 けれど、美咲は入口に立った瞬間から、妙な違和感を覚えていた。 「……ここ、本当に使われていないんですか?」 高瀬が周囲を見る。 「五年前に本社機能が移転してからは、ほとんど使われていないはずだ」 埃の積もった棚。 古いファイル。 誰も触れていないように見える。 だが──。 美咲は一番手前の棚に目を止めた。 「これ」 棚の端に、小さな数字が貼られている。 24 高瀬が眉を寄せる。 「またか」 「はい」 美咲は慎重に近づいた。 24番の棚には、古い内部調査資料が並んでいる。 その中から一冊を取り出す。 表紙には、 黒崎グループ関連調査 と書かれていた。 「相沢さんの資料かもしれません」 ページを開く。 取引先。